広重描く東海道五十三次の「原」と、ほぼ、同じアングル。子どもたちが舟遊びしている。
 排水設備が整う昭和40年ごろまで、富士市〜沼津市にかけての愛鷹山南麓の低湿地帯・浮島ケ原では、北に愛鷹山、南に砂丘があるため、雨水が海に排水されないばかりか、遡潮による塩害に苦しみ、大雨や高潮時には、一面湖のようになることがあった。これを地元の人々は「シラウミになる」と言った。こうした浮島ケ原に開かれた湿田を「ドブッタ」といい、胸や腰まで使って田植えや稲刈りをおこなった。その際、水田に出掛けたり刈り取った稲を運ぶなどの農作業には川舟が利用され、またウナギやコイ、フナなどの漁撈にも川舟は利用された。
 この写真では、たしかに少年たちが川遊びに興じているが、このような家業を手伝ってのうえのことであろうから、操船もなかなか堂に入っているのである
 次の写真は1907年10月5日の消印のあるもの。上とほぼ同位置からの撮影。東海道からでも撮ったのだろうか。





 かつて、稲刈りの後に芦刈りが行われ、各地の風物詩となっていた。用途は、葦簀(よしず),茅葺の屋根材,垣根,燃料,堆肥など。
 とくに畑を葦で覆うことで、雑草が生えにくくなり、保水性・保温性が増し、やがて分解すれば腐植土となる。さらにその分解過程で、土中の微生物とその捕食者との循環系が生まれ、人為的に耕す(=酸素を入れて微生物の活動を活発にし肥えた土にする)手間も軽減されるという。
 こういう知識でこの写真を見ると、川船いっぱいに葦を刈り取っているのも頷けるのである。