江戸時代、原の米作りは「五年一作」といわれるほど、浮島が原の水害や遡潮による塩害に悩まされつづけてきた。
慶応元年(1865)、増田平四郎は、20年間におよぶ陳情の末、ようやく幕府から浮島が原の掘割工事の許可を得、工事を開始する。ところが慶応2年(1866)、完成間近のところで、土用波に破壊され失敗。その後、何人かの人が試みるも、ことごとく失敗。
こうして昭和十八年(1943)、平四郎が掘り割り工事を行った時から約八十年の歳月を経て、全く同じ場所に「昭和放水路」が完成した。
現在、昭和放水路脇には、放水路を見下ろす増田平四郎の石像が立ち、碑文には、次の歌が刻まれている。

「ありし世の、人のほまれを浮島の
 沼のほとりにたつも石文」



明治末ごろの撮影。