新橋は、旧東海道吉原宿の東にあった和田川に架かる橋。この橋を渡って左手にしばらく歩くと、吉原宿の東木戸があった。
 右端の店には、街道筋で人が通るからなのだろう、「菓子」と書かれており、子どもたちが集まっている。
 新橋は現在「平家越(へいけごえ)橋」と名前を変えている。これは、治承四年、源平の富士川の合戦のとき、武田信義軍の水鳥の羽音に驚いた平家が敗走した場所との伝承からである。『吾妻鏡』治承四年十月二十日には「印東次郎常義者、於鮫嶋被誅」あるが、「鮫島」は現在、田子の浦のすぐ西に地名が残る。また弘安2年(1279)に阿仏尼が富士川を渡った際、「明けはなれて後、富士川渡る朝川いと寒し、数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる」とある。またボーリング調査などの結果からも、鎌倉時代の富士川の主流は、現在の河口のはるか東、現在の潤井川と合流して吉原湊に流下していたと推定される。