「東海道五十三次」中の「吉原」にみえる「左富士」。広重は道中日記に「原・吉原は富士山容を観る第一のところなり。左富士、京師(みやこ)より下れば右に見ゆ。江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松並木を通して見ることは絶妙の風景なり」と記している。明治時代のこのはがきでも、東海道に沿って、松林が続いており、広重の絵の世界が残っている。現在、周辺には工場や住宅が立ち並び、浮世絵に見るのどかな風情は感じられないが、わずかに残る樹齢二百年と推定される一本の老松は、往時の面影をわずかに偲ばせている。
明治44年8月9日および10日の消印があるこの葉書の文面には、豪雨が降ると大出水し洪水の恐ろしさを始めて知ったとか、富士川が氾濫しそうだと半鐘を乱打している、などと書かれており、当時、この地域が水害に悩まされていた様子がわかる。


明治42年1月1日消印。奥にも街道に沿って何本が電柱が見られ、すでに電気が通じている。
ということは、1枚目の写真には電柱が見られないので、それ以前の撮影だと思われる。



昭和前期ころ。


広重「東海道五十三次」中の「吉原」。左富士の様子。



現在の「左富士」。道が先で左にカーブしている。
わずかに残る往時の老松だけが、面影をとどめている。
(平成15年10月1日撮影)