東海道を京へ上っていくと、はじめ富士山は高麗山からずいぶん右手に離れて見えるが、平塚宿を出たところから急速に近づきはじめ、古花水橋交差点(平塚宿京方見附)付近で高麗山に隠れる。そのあたりからの景を実際に目にしたうえで、広重は「東海道五十三次之内・平塚」を描いたものと考えられている。
 現在、高い家並みが邪魔になって、この写真どおりの景観を見るのは難しいが、冬の快晴日であれば、東海道線の車窓から高麗山に隠れる瞬間の白富士を見ることができる。
 このあたりは、唐と新羅に滅ぼされた高句麗からの渡来人が当初住み着いた場所とされ、その後、彼らは武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市)に移住させられたという。ふもとの釜口古墳(7世紀末〜8世紀初)の石室の見事な切石積には、渡来人の高度な技術力がみてとれるという。