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出典 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years of 1852, 1852, and 1854, Under the Command of Commodore M. C. Perry
出版 SARONY & Co. New York
画題 BAY OF WODAWARA (小田原湾)
画工 W. Heine
画寸 151 x 226mm / 石版画
所蔵 Ichikawa, hiroyasu

 「二月十二日の朝には、天候が漸く定まり、汽船は湾に向かって航海した。先般訪問の際に親しんだために、陸の姿は見分けがついたけれども、季節が違うために、風景の姿は変わっていた。巍然たる富士山の頂も、前と同じようにはっきり見えたが、今は全く、雪の冬衣をまとっていた。<中略>天候は寒く、風が吹き荒んでいた。汽船が陸に近づくと、投錨している二艘の船が、すぐ近くにはっきり見えた。その船に近づくと、マセドニアン号とヴァンダリア号であることを発見した。ヴァンダリア号は、マセドニアン号の坐洲を知らせる信号を掲げていた。前日艦長アボットが、湾入部分を浦賀及び江戸に到る通路の入り口と間違え、その中で乗艦を擱坐せしめたのだといういうことがまもなく確かになった。それで艦長は、思い切って海岸に近く進みすぎたために、艦長の持っていた日本帝国の海図には勿論記されていない暗礁に船を乗り上げたのである。この海図というのは、日本当局が写したフォン・シーボルトの海図の一つを写したもので、艦隊の第一回江戸訪問中に書いた二三の注意書きを附したものに外ならなかった。艦長アボットは、乗艦がかく絶体絶命に陥ったことを発見するや、吃水を浅くして離洲しようという普通の手段をとり、大砲を下ろす準備をし、又実際に舷側から雑貨類を投げ込んだ。当時行を共にしたヴァンダリア号のポープ中佐は、直ちに投錨し、ボートを派遣して僚艦マセドニアン号を助けた。
 <中略>日本人はマセドニアン号の坐洲を認めるや否や、その助力を申し出、これによってアメリカ人に対する日本人の親愛な態度が立派に示された。彼等は来訪者の利益と財産とに対して、甚だ鄭重にして行き届いた顧慮を払い、実に当時二十哩を隔てていた艦隊へ、一ホッグスヘッドの瀝青炭を送り返してくれる労をとった程である。この瀝青炭というのは、船を軽くするために艦上から投入され、その後海岸に打ち上げられたものであった。」(岩波文庫/「ペルリ提督日本遠征記」)

 ロマン主義の難破船と、神奈川沖裏波とを融合させたようにも見える。