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出典 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years of 1852, 1852, and 1854, Under the Command of Commodore M. C. Perry
出版 T. Sinclairs lith Philad.
画題 VIEW OF URAGA, YEDO BAY (江戸湾浦賀の眺め)
画工 W. Heine
画寸 151 x 227mm / 石版画
所蔵 Ichikawa, hiroyasu

 ペリー「日本遠征記」中に富士山が登場する版画は6点あるが、うち、和船の説明の背景として描かれた場所不明のもの1点を除く、残り5点を紹介する。

 ペリーは、富士山の印象を、以下のように記している。

 「塩辛い道を渡り、現に雪をいただいた富士を、その国を眺めてさえも、この地にやってくるとは、夢にも思いはしなかった」
 「艦隊が湾を出るとき、前に当たりあるいは後に当たって富士山の高い頂きを、別れに当たって望むことができた」
 「士官達や部下達はすべて、日本人の親切な気質と国土の美しさに、有頂天になっていた。実際眼の向くどこでも、風光絵のごとく、それ以上麗しい風景は他になかった<中略>至るところのよく耕されている土地、濃い豊かな緑のあらゆる草木<中略>麗しい、豊かな幸福な景色を呈しており」(岩波文庫/「ペルリ提督日本遠征記」)


 このように、富士山は美しい日本の象徴として意識されていたことがわかる。
 
 さて、この画面の記述部分は、以下である。

 「午後五時頃艦隊は江戸湾の西側にある浦賀町の沖合い投錨した。これよりわずか前、単帆檣艦は(順風だったので)各々曳船から引き離されたのであって、四隻の艦船は指令されたとおり海岸に向かって位置をとった。投錨直前に天候はからりと晴れ渡り、富士山の高い頂はますますはっきりと見え、遥か彼方に横たわる群峰から抜きん出て高くそびえていた。<中略>投錨に先立って、数多の日本の防備船が続々と海岸を離れてくるのを認めたが、提督は言葉と信号とで自分の乗艦以外の船には何人の乗船も禁ずという至急命令を伝えたのであった。」(岩波文庫/「ペルリ提督日本遠征記」)