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出典 | Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years of 1852, 1852, and 1854, Under the Command of Commodore M. C. Perry |
出版 | Sarony & Co. New York |
画題 | MARINER TEMPLE AT SIMODA |
画工 | Neine |
画寸 | 150 x 223mm / 石版画 |
所蔵 | Ichikawa, hiroyasu |
それは特に水夫たちの守護神に対して奉納されたもので、アメリカ人達が「水夫の寺」と名づけたものだった。そして海と関係のある職業に従事している人々は絶えずここに集まって来て、祭神の加護を祈り、感謝のお礼をするのである。首尾よく獲たその日の獲物を入れた籠をもった漁師の群れがこの聖なる場所の境内に集まって来て、きめられた形式によって恭しくこころからの感謝を表わしていた。難破した水夫たちは偶像の前に平伏し、チョンマゲを犠牲にしたり、その他、自分に課せられた苦行を進んで行ったりして誓いを果たす。せまる危険にさらされているとき、彼等は自分たちの生命を救ってもらう代わりにその難行を約束したのである。森の陰では水夫や漁師たちが忙しそうに網を繕っていた。長い櫂や籠や職業上のあらゆる諸道具に取りまかれて、彼等の仕事に幸あらんことを祈り、神のご利益によって明日の漁りの幸運を得ようとしているようであった。この水夫の寺は下田のもっとも美しい建築物の一つである。 この「水夫の寺」は長年、場所が特定できなかった。これは、ペリーの記述から弁財天と考えてしまったこと、背景の山が「相の山」だと思われてきたこと、安政の大地震と大津波による再建などによる。しかし、開港百五十周年を前に下田市史編纂室が「水夫の寺」を再考していた際、市商工観光科の近持孝一氏の指摘、及びその後の編纂委員の確認により、下田市一丁目の須崎町にある住吉稲荷であることが判った。図中の二股に分かれた大きな榎、参道左右の石壁、社前の小さな石橋も確認できたという。この間の経緯は平成15年12月23日刊「伊豆新聞」に詳しい。 |