大正3年1月14日、金井勝三郎ほか6名からなる高田スキークラブが滑走。吉田口8合目で酒井薫が氷上滑落死したため中止。絵葉書は、この事故直前の報道絵葉書だと思われる。富士山における山岳スキーの最古の記録写真の一つ。
 資料によれば当時のスキーのスタイルは、1mぐらいのケヤキやクリ材の一枚板に金具(ビンディング)をつけ、ストックがわりの竹竿1本だけ使って滑走するスキー術であったとされているが、写真を見ると板の長さは170cmくらいありそうで、また、絵には竹竿ストックの先にはピックが描かれている。
 明治44年1月、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人レルヒが、越後高田で日本で初めて本格的なスキー指導をおこない、我が国におけるその後のスキー発展の基礎をつくったので、高田は「スキー発祥の地」とされているが、レルヒ来日以前、オーストリアのレッツェルホーラー商社の駐在員クラッツェルが、明治42年12月、太郎坊で山岳スキーを行っている。国際スキー連盟のホームページによると、1909年「25 December. Austrian Egon Edler von Kratzer made first Japanese ski tour. Alpine Skilauf in Japan. Der Schnee IX 24. 4 April 1914, 207.」となっている。この点から、御殿場市は「我が国におけるアルペンスキー発祥の地」ともいえよう。


御殿場口新五合目にある記念碑