野中至は明治二十八年(1895)、富士山頂剣ケ峰に自費で木造六坪の観測所を建て、富士山頂冬期気象観測を実行した。この壮挙は中央気象台(現在の気象庁)による「富士山頂観測所」の建設の礎となった。野中至の著「富士案内」にも、上掲の写真と同じ観測所の図が描かれており、東西二間、南北三間、棟の高さ九尺であった。
妻・千代子は、夫の身を案じ、山頂の観測所を訪ねる決意をする。芙蓉日記には「此度(このたび)良人(をっと)の富士山頂に籠り給ふにつけ、妾(わらは)もせめて御供にと心の願ひを打明し委(くは)しく告げ参らせたれば、御ニ親はかなしげなる御けしきもなく、そは勇ましきことにこそ。なべて婦(をんな)の道として命ちにかけて夫(つま)を助けん事、昔しの聖りの教へぞかし。かからん時に逢竹(あひたけ)の心のふしを尽くさんこそ真との婦とも云ふべけれ…と仰せられ」と記し、勇躍、富士山頂の至のもとへ押しかける。明治28年10月12日のことである。
千恵子は、その後、至の観測を手伝うが、二人は厳冬期の厳しい生活の中で病に冒され、至は脚気で歩行困難に陥ってしまう。身を案じて登ってきた和田技師の説得に、至は「僕(やつがれ)が願ふところは将来大きやかなる帝国気象台を建てんことにぞある…が今屠腹して此処に死するも更に憾みを遺す事は候はず、今僕(やつがれ)下山しなば、世人は富士の越年は及びなき望みにて、なし難きわざよと誤り信じ、終には後には建設(たてまう)けなん事のさはりとなりもやせんと思へば」と、かたくなに下山を拒否するが、結局、和田技師の必死の説得に、ついに下山を決意するのである。明治28年12月22日のことである。