まだ丹那トンネルができる前、東海道線は今の御殿場線を通っていた。
 鉄道院2120形と思われる、石炭庫と水槽をエンジンと同体としたタンク機関車が写っている。
 御殿場線は1/40の急勾配のため(40m進むごとに1m上る)、列車の前後に機関車が付いて前牽き、後押しで運転されていた。とくに山北から駿河小山までは大小8ヶ所のトンネルがあったため、2120形のような強力なタンク機関車は下り列車に対してはバックで使用されることが多かったそうだ。この写真は、足柄〜御殿場間で、下り列車の後部補助機関車を、列車の後部から写したもの。
 なお、この絵葉書は、満州の遼陽駅で働く友人あてに投函されたものであり、明治43年7月6日午後4時の発信印、同月11日午後10-12時着の到着印がある。 静岡34連隊の橘中佐の奮戦の六年後、乃木大将とステッセル将軍との水師営の会見のわずか五年後のことである。
この写真を見た同時代の人は、列強ロシアを破った驀進するアジアの一等国日本を、この写真の風景に重ね合わせて見ていたのかもしれない。