刳り下駄ではなく、足駄の甲良(差し歯下駄の台)を大八車で運んでいるようだ。
 かつて富士宮から鷹岡にかけては、静岡特産の塗下駄の下地作りをしていた。
 撮影地は、元写真(大判写真)のキャプションに「SANDOBASHI SURUGA」とあることから三度橋(現,富安橋)付近での撮影。
 ところで、静岡への供給ルートを考えると、なぜ反対方向の東へ運んでいるのか。
 どうやらそのカギは、引き役の '頭' にありそうだ。よく眺めると、なんとマゲを結っている。東海道線も富士川運河もない明治初年、陸路、静岡まで運ぶのはたいへん困難なため、逆行するようだが、いったん吉原湊に運び、海路、清水港まで運んでいたのだろうと推測される。
 明治初頭のこの地域の下駄出荷量は不明だが、ちなみに大正8年、大宮町(現,富士宮市)では12社が下駄を生産しており、27750円の出荷額がある(富士郡大宮町史)。