明治4年(1871)「渡船、架橋の許可を与える太政官布告」が出され、これを受けて安倍川近くの弥勒の戸長宮崎総五は有料橋建設事業に着手する。もともと宮崎家は、代々川越の総取締役の家柄で、静岡藩が許可を与えたのは、川越人足400人の失業対策もあったという。宮崎は架橋の大事業を官費の補助を受けず、工期半年、7,000円の工事費をかけ、独力で成し遂げる。こうして明治7年(1874)3月24日「安水橋」が完成。延長は280間(約504メートル)、幅2間(約3.6メートル)。橋銭は徒歩が4厘、馬車は4銭5厘とったが、これはかつての川越人足に支払う額の半分であった。
こうして、工費はその後の通行料でまかなうという、初の有料橋ができたが、度重なる出水による橋脚の破壊などで維持が困難となり、静岡県に移管され、明治35年に大改修が行われ無料とした。この写真がそのときのものである。