陸軍少年戦車兵学校は、昭和17年8月〜終戦まで静岡県富士宮市に置かれた、大日本帝国陸軍の教育機関である。機甲部隊の拡充強化のため、14歳から19歳の少年の育成が行われていた。教職員は1,550名。延べ4,000余名の少年が学んだ。写真の戦車兵も、いくぶん童顔が残っている。写真は九七式中戦車。
 約30万坪の敷地には、約80の校舎や集会所、軍需工場、車庫、弾薬庫等があり、昭和18年当時、戦車は約80両、自動車類も数十両が配備されており、朝霧高原一帯が演習場として利用された。また隣接地には陸軍病院も併設され、これが現在の独立行政法人国立病院機構静岡富士病院となっている。
 当時、少年戦車兵は「若獅子」と言われ、少年航空兵の「空の若鷲」と並び称され、国軍の双璧と讚えられた。一期生は150名募集のところに8千余名の応募があるほどの人気ぶりであった。
 しかし出征した少年戦車兵および教職員のうち、600余名が戦死している。なかでもルソン島の戦いでは、昭和20年4月17日、バギオにおいて「戦車特攻」が行われ、少年戦車兵3名が乗った九五式軽戦車が爆雷20キロを架装したうえでアメリカ軍M4中戦車に突撃、自爆している。
 現在、元敷地の一角には鎮魂のための若獅子神社が建立されており、境内にはサイパンから'帰還'した九七式中戦車が安置されている。車体全体に残されたその生々しい弾痕の数々に、追悼の思いを一層強くさせられる。