日下部金兵衛の撮影。現在の富士市今泉。IEDZUMIとなっているが、地元民の「いゃーずみ」が転訛したものと考えられる。現在でも、この道はそのまま残っている。 道を上っていくと、左手の一番高いところに、瓦屋根の土蔵らしきものがある。この土蔵は、妙延寺に嘉永元年(1848)に建てられ、明治6年(1873)には今泉小学校の前身である原泉舎の教場として使われたもの。天井には墨絵の竜が描かれ、入口の左右には中国二十四孝の物語を題材にした漆喰のこて絵があり、現在、市立博物館のある広見公園に移築されている。 この妙延寺のあたりから西(左手)にかけて、かつて善得(徳)寺があった。 今川義元は幼い頃この善得寺で修行したが、当時の住持が後に彼の軍師となった太原崇孚(雪斎)である。戦国時代、この駿河東部は今川・武田・北条の争奪の地となったが、天文23年(1554)、太原崇孚が仲介役となり、ここ善得寺で「甲・駿・相三国同盟」が成立した。武田信玄、今川義元、北条氏康が一同に会した「善得寺の会盟」があったといわれるが、北条方資料にしかなく、信憑性に乏しい。太原崇孚は、駿河人質時代の徳川家康の学問の師でもあった。 さて道の奥右手の地域名を「御殿」という。このあたりは徳川家康が駿府〜江戸往還に使ったお茶屋御殿のあった場所といわれ、付近は湧水が豊富で、ご覧のように風光明美な場所。家康死後、久能山から日光へ改葬する際の行列の初日の宿泊地もここであった。台徳院殿御実記の霊柩行程(日光市史中巻)によれば、元和三年(1617)三月十五日「今日のお泊りは、富士の善徳寺なり、砌(みぎり)に散る桜あれば咲くもあり、是れすなわち常住の理なるぞや…」とある。。 右端には水車。現在でも、この小川は流れている。また左下には橋の欄干の一部が見られ、田宿橋と思われる。とすると画面下の写っていない部分には田宿川が流れていたはずだ。田宿川は富士の湧水群に沿って流れる川で、準絶滅危惧種のナガエミクリで河床が覆いつくされ、また梅花藻やクレソンも見られ、カワセミも生息する美しい川。付近では泉が自噴しているところが何か所かあり、上の写真の積藁の右手の小流もそのようだ。 田には積藁があり、富士山の雪も厳冬期ほどではないので、10月ごろか。影の方向から、午後3時ごろの撮影のようだ。 |
ほぼ同じ場所からの撮影。手前信号機の右に富士山頂。 (2012.6.8)
すぐ手前を流れる田宿川。 河床を覆いつくすナガエミクリ(準絶滅危惧種)。(2012.6.8)
田宿川に沿ったベランダの端に、カワセミ発見!
人工物だろうが、エサを狙いやすいところならどこにでも留まります。
ダイブを2回見ました。田宿橋付近。(2014.1.17)
魚影。田宿橋付近。(2014.1.17)
田宿川の道仙橋近くでみられるクレソン (2012.7.28)
カルガモが狙っています(2012.7.28)。