明治5年10月、岩淵と蒲原堀川間の4kmの運河が開かれ、明治8年、甲州鰍沢と蒲原間を舟運する富士川運輸会社が創立された。この写真には甲斐からの通舟がみられ、木材や米俵やらが荷揚げされている。甲州廻米は、この運河を経て蒲原浜から清水湊に送られ、さらに大型船に積み替えて東京方面に向かった。清水市の巴川岸には今でも「甲州廻米置場跡」の石碑が立っている。しかし、明治22年の東海道線の開通、さらには明治35年の中央線八王子〜甲府間の開通により、この運河は物流の中継地としての使命を終えた。
 現在、運河そのものは残っていないが、中央公民館東駐車場〜富士川第一中学校の校舎と体育館の間〜旭町の東海道線高架下に抜ける道路が、当時の運河跡と考えられる。(大正8年地図と比較)