幕末期の伊豆代官であった江川太郎左衛門英龍は、国防の重要性を幕府に建議し、お台場築造の許可を得て、勘定吟味役格となって、お台場築造に着手する。さらに大砲鋳造に必要な反射炉の築造に着手したものの、業半ばで他界。そこで長子英敏が父の遺業を継ぎ、安政4年に反射炉の完成を見る。ここで鋳造された大砲は、品川台場に使われた。ほぼ完全な形で現存する反射炉としては、我が国唯一のものである(写真右下)。
 富士山の手前は愛鷹山。さらにその下に右側から突き出た黒っぽいゆるやかな山稜があるが、江川邸は、その向こうに位置する。また、その山稜の富士山下あたりの位置に、韮山城があった。秀吉の小田原征伐の際、北条氏規守るこの城は、4万の敵勢に囲まれながらも4ヶ月間も耐え、結局、今川人質時代よりの旧知の仲である家康の説得により開城、氏規はいったんは高野山へ入るが、その後許され、河内狭山藩祖として北条家の血筋を残す。
 さて、その韮山城から降りたすぐ左手の平野部分には史跡「蛭ケ小島」がある。
 平治の乱で平清盛に敗れ捕らえられた源頼朝が、清盛の義母池禅尼の命乞いによって流された地で、当時は蛭の多い湿地帯だったという。頼朝は14歳から旗挙げする34歳までをこの地で過ごし、北条政子とも結ばれた。頼朝が青年期に過ごした原風景がここにはある。